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2011年4月24日日曜日

MISHKA


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彼は若い頃の殆どをカリブ海のボートの上、島から島へと航海する両親と姉達と過ごす。
ミシカにとってROOTS REGGAE MUSIC、RASTAFARIなどに惹きつけられるのは自然な事であり、
彼の音楽に自然で神秘的な要素が感じられるのはそのせいである。彼はこうも言っている、『僕は大のレゲエファンだけど、それだけじゃない、フォークやソウルやロックなどの要素も僕の音楽にはあるんだよ』そしていつもその生い立ちにも国際的に注目される。『僕の両親はバミューダで出会ったんだ。二人は海で生活する夢を持っていて、父が家族で住むためにボートを建てたんだ。僕は3歳の頃にはボートに引っ越していたよ。そして家族でカリブ海や大西洋中を航海したよ。ブラジルにも行ったし、カリブの島は全て行ったよ。大西洋を渡ってポルトガルとイングランドにも行ったね』もちろんミシカと姉達(姉の一人はヘザー・ノヴァ、ヨーロッパで活躍するアーティスト)は小学生の頃などは学校にも行かず、ボートで教育を受ける。『地図やチャートの見方を学ぶのが僕にとっての数学と地理の授業で、いろんな国に行って人々とその国の文化について話すのが歴史の授業で、航海中に本を読むのが国語の授業で、港でフランス人やポルトガル人と話すのが外国の授業ってところだったね。』

航海中のボートにはカセットプレイヤーがあったのでミシカは両親が愛する音楽を聴いていた、、ビートルズ、ジミー・クリフ、ディラン、ジミー・バフェットなどだ、しかし彼は『しばらく経つと僕の姉がポリスやカーズやロキシー・ミュージックなども僕に聴かせはじめたんだ。でもバーニング・スピア、カルチャー、そしてボブ・マーリーを聴いたとき、僕はもう完全にレゲエにはまってしまった』

そうして音楽的素養を身につけ育ったミシカは友達のために曲を作ったり歌ったりするようになる。
この頃カナダの学校に通うために一瞬陸にあがるも、あまりの自然児ぶりに18歳を待たずにドロップアウトしている、、

それから間もなく、レースの知識も全く無いのにウィンド・サーフィンの世界選手権のバミューダ代表に選出されるという離れ業をやってのけ、その間も音楽活動は進めていた彼は、当時UKにおいてプライマル・スクリーム、オアシスを輩出するなどインディーズ音楽産業の中心にいたクリエイション・レコードのアランマッギーが『本当はレコードなんか作りたくなかった。』と言っていたミシカとバミューダ島で出会い、彼を陸にあげることになる。当時アランはミシカとの出会いを『マンチェスターで現代のジョン・レノンに会い、バミューダで現代のボブ・マーリーに出会った』と表現した。もちろん『マンチェスターのジョン・レノン』とはオアシスのリアム・ギャラガーの事で、『現代のボブ・マーリー』とはミシカの事である。

そしてUKへ引越して1999年にクリエイションからリリース(日本はSony/Epicレーベルからリリース)されたデビューアルバムMISHIKAはUKでTop40ヒットを記録。
日本でもリードシングル ギブ・ユー・オール・ザ・ラブのラジオヒットによりオリコン洋楽チャートトップ10を記録。輸入盤併せて5万枚以上のセールスを記録している、日本にも1999年のフジロックフェスティバルで来日。その直後に東京、大阪での単独来日公演も果たす(ちなみにこの東京公演ではリトル・テンポをオープニングアクトに迎えている)

その後ミシカはまた海に戻るのだが、(ちなみに彼のサーフィンはプロ級の腕前)。UKクリエイション・レコードの経営破たんも相まってもう新作は聴けないのでは、、というファンの声をよそに2005年、6年ぶりの新作ワン・ツリーを、デビューアルバム制作中に隣のスタジオにいたMartin Terefe(KT タンストール,ジェームス・モリソンなど)と制作。ルーツ・レゲエを基調としながらもブルース、ロック、フォークなど様々な要素を持った新作はインディーズからのリリースにも関わらず輸入盤と併せて2万枚以上のセールスを記録。2006年にはグリーンルームフェスティバルで再来日も果たす。
そして新作のツアー中に、長きに渡ってスライ&ロビーのギタリストとして活躍していたダリル・トンプソンと出会い、二人は新作の制作を開始、、
今年、2009年のグリーンルームフェスティバルにも参加予定、
これからがますます楽しみな、MISHKA!!
福岡にも来る事を祈るばかりである、、

*MISHKA Live In Viper Room, June.3rd.2008

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